155.究極の人間関係?

おはよう!じゅくちょうだ!

昨日の夕方、少し小学生の塾生たちと

サッカーをしただけなのに、

妙に体がスッキリしている。

(「すぐ疲れる」じゃないんだな)

やっぱり適度な運動はいいね。


…といっても、小学生相手のサッカーでも

基本的に手加減なし…

奴らは上達が早いんだ。


今のうちに勝ち星を上げておいて、

「塾長はやっぱり若いな〜…」と

思い込ませておかないと、

「こうちゃん、もういい歳なんやし、

僕らとサッカーしてないで

お嫁さんでも探しておいでよ」

なんて言われるに決まってる。

(いつもの被害妄想。)


中高生の男子と腕相撲をしても、

まだじゅくちょうは勝つのだけど、

これもきっと「思い込み」だと思う。

筋力は彼らの方があるはずなんだ。

(早くそれに気付いてほしいものだけど、

「教えない」のがうちのポリシー、

自分を信じて思い込みを乗り越えなはれ)


…比較的幼い頃に、

じゅくちょうの強いイメージを植え付けておいて、

彼らが成長しても大きな壁として

目の前に立ちはだかる…

「どうしてもこの先へ行きたければ、

ワシを倒してから行け!」

(…何がしたいんだ)


昨日ある塾生と話していたのだけど、

「人の役に立つ、助けになるってのを

生活や人生の目的にすると、

相手から必要とされなくなった時に

自分の存在意義はなくなるよね。」

という話題になった。


ビジネスやボランティアや宗教は、

人が困っていてこそ成り立つものだけど、

もし誰も困らない世の中になったとしたら、

人はどこに自分の存在意義を見つけるのだろう?


子育てや教育は、

子どもに必要とされてこそ成り立つけど、

じゃあ子どもが自立して

大人を必要としなくなったら、

親や先生は子どもと

どう関係を築いていけばいいのだろう?


病気は治してほしいけど、

病気がなくなったら商売にならない医者…

火事は起きてほしくないけど、

火事がないと活躍できない消防士…

悩みを解決してほしい、

でも解決されると自分の存在意義がなくなる…

そんなジレンマはないだろうか?


もしそうであれば、裏を返せば、

僕たちは自分の存在意義のために

誰かが困ることを望んでいる部分も

あるのかもしれない。


子どもに自立されると

親や教師の存在意義がなくなるから、

子どものあら探しをする…

本来あるべき「自立のための教育」が、

「大人の存在意義のための教育」に

なってしまってはマズい…。


問題の解決や相手の役に立つことを

自分の存在理由・人生の目的にしちゃいけない。

大事なものは「その先」にある。


近い将来、塾生たちは塾長を超えていく。

彼らが悩みの解決や自立の面で

塾長を必要としなくなった時、

彼らにとって塾長の存在意義は

なくなるんだろうか?

(子が親を超えた時、

親の存在意義はなくなるんだろうか?)


この週末はこれについて考えてみてほしい。

他人があなたを必要としなくなっても、

あなたと関わり続けようとするには、

あなたに何が必要だろう?


あなたの意見を待っている。

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そのシェアができれば楽しそうだ。


大事なことなので、あと3回言う。

あなたの意見を待っている。

あなたの意見を待っている。







あなたの意見を待っている!

じゅくちょう